航空業界からみた、戦後の日本の歴史。
- 戦後初の国際線フライトの1年も前に、存在した日本の国際線フライト
- JAL国際線のスチュワーデスによる「和服サービス」
- 1964年の東京オリンピックの聖火運搬の裏側
- 東京オリンピックの聖火運搬に間に合わせられた、国産旅客機YS-11
- 東京オリンピック開会式にブルーインパルスが描いた五輪マーク
- オリンピック選手を運んだチャーター機の使い道
- ビートルズの東京来日
- フィリピン公演の収益を巻き上げられたビートルズ
- 長崎空港にやって来たコンコルド
- 南西航空の設立
- 日本と世界をつなげた、空の貴婦人「DC-8」
- 日米講和会議の裏側
たまたま図書館で見かけて、「航空から見た戦後昭和史:ビートルズからマッカーサーまで」という本を借りてみました。
写真は少なく、約300ページもあり、辞書みたいな感じでしたが、「航空」の視点で日本の戦後史を見ているようで、なかなか面白く読めました。
航空機というのは、人を運ぶのが大きな役目なので、歴史的な場面に遭遇していることが多いと思いました。
読んでいて、「へぇー」と思ったのは、以下の内容です。
戦後初の国際線フライトの1年も前に、存在した日本の国際線フライト
1954年2月2日の戦後初の日本の国際線フライトの1年も前に、日本の航空会社による国際線フライトが存在した。
1952年12月に、日本で亡くなった在日フィリピン大使の遺体を、フィリピン本国に送還するために、日本政府が日本航空のダグラスDC-4高千穂号をチャーターし、飛ばした。
JAL国際線のスチュワーデスによる「和服サービス」
日本航空・JALの国際線で、1991年まで存在したスチュワーデスによる「和服サービス」。
狭いトイレの中で、スチュワーデスが着替えることができるように、上野松坂屋が、上下セパレート式の着物を考案した。
1964年の東京オリンピックの聖火運搬の裏側
飛行機の機内に聖火安置台が作られた。
途中、香港では台風に遭遇し、聖火運搬機「シティ・オブ・トウキョウ」 号が、香港空港の格納庫に入れてもらえず、機体が破損。飛行不能に。代替機を飛ばして対応。その後、経由地の台湾で、修理した聖火運搬機「シティ・オブ・トウキョウ」に乗り換える。
聖火の経由地である沖縄は、当時、米国の統治下で、日本との往来は国際線の扱いでパスポートが必要。さらに、沖縄県内では、日本の国旗を自由に掲揚することは認められていなかったが、聖火式典の際は例外としてもらえた。
東京オリンピックの聖火運搬に間に合わせられた、国産旅客機YS-11
国産旅客機YS-11は、1957年から開発が始まったものの、設計トラブルや型式証明の取得などで迷走。
国内での聖火運搬にYS-11を推薦し採用される。
YS-11の型式証明を取得できたのは、聖火運搬機「シティ・オブ・トウキョウ」がアテネを出発したあとで、ギリギリの日程だった。
YS-11をアピールした内部資料には「どなたが運行されても操縦には5、6時間もあればマスターできますので、特別な大げさな訓練は必要としません」。
東京オリンピック開会式にブルーインパルスが描いた五輪マーク
東京オリンピックの開会式前日の10月9日、東京は豪雨で、次の日の式典はないと思ったブルーインパルス隊員たちは、新橋で午前1時まで飲んでいた。翌日は快晴だったため、慌てて入間基地に戻った、というウワサ。
オリンピック選手を運んだチャーター機の使い道
各国からの選手を、日本に運んだ航空会社の特別機は、往路と復路の折り返し時は、乗客がいない状態。日本の旅行代理店が、その特別機をチャーターし、日本からヨーロッパ・アメリカへのツアーとして利用。日本における海外ツアーのはじまり。
ビートルズの東京来日
ヨーロッパからの航路、途中給油のためでアンカレッジ空港に1時間滞在の予定が、日本に台風が接近している恐れがあるとして、しばらく滞在。ビートルズのマネージャーであるエプスタインが、スケジュール対応に大慌て。
フィリピン公演の収益を巻き上げられたビートルズ
東京公演の次におこなったフィリピンでの公演の際、ビートルズが、イメルダ・マルコス主催のパーティを断ったため、イメルダ・マルコスが激怒。マスコミを総動員して、国民の怒りをかきたて、民衆や警察や空港の職員も敵に回る。マニラでのコンサート収益全額を巻き上げられ、暴動寸前のマニラ空港から命からがら逃げ出す羽目に。
このトラウマか、この後のビートルズのライブ活動は終了。
長崎空港にやって来たコンコルド
1990年に長崎旅博覧会に合わせて、コンコルドが長崎空港にくる。コンコルドを見たさに、長崎空港に大勢の人が来て、弁当・タオル・自動販売機は飛ぶように売れ、レストランなども超満員。空港をつなぐ、箕島大橋は大混雑で通り抜けるのに1時間以上かかる状態。パイロットが到着できずに、定時出発できなかったり、橋の上で、自分が乗る予定だった飛行機を見送る羽目になった乗客も。
南西航空の設立
米国統治時、琉球列島内の航空は、米国エア・アメリカが提供。米国エア・アメリカは、素性の良くない会社で、地元住民などからの評判がよくなかった。米国民政府が航空事業を行う会社を募り、日本航空と沖縄企業により、南西航空(現在の日本トランスオーシャン航空)が誕生した。
日本と世界をつなげた、空の貴婦人「DC-8」
1960年に、日本航空が、DC-8を東京=ホノルル=サンフランシスコに投入。
DC-8は、日本航空の拡大路線を象徴する飛行機だった。ビートルズの来日、田中角栄の中国訪問、 横井庄一の帰国などの歴史的場面で使われてきた。
DC-8「フジ」は、14年間のなかで、39,360時間の飛行時間、地球886周分の飛行距離。機首が永久保存されている。
日米講和会議の裏側
吉田茂が日米講和会議でサンフランシスコに向かう際、パンアメリカン航空のパーサー、ユジン・J・ダニングが担当。
全権団の特別補佐官だった白洲次郎は、ダニングがベリー・ドライなマティーニを作り、「戦前からこれほど素晴らしいマティーニにめぐりあったことはない」と評す。
全権団が日本に帰国時、着陸する飛行機に日の丸掲揚のため、白いタオルとスチュワーデスの口紅で、ダニングが即席の日の丸を作る。
Have a good flight! ✈